※이 자료는 왜정시대 조선의 에키벤 관련 기사의 철저한 목록이 아니다. 국립중앙도서관 대한민국 신문 아카이브의 스캔 이미지를 저본으로 삼았다. 지면의 마멸에 의해 판독하지 못한 글자가 있으며 誤認字가 존재할 수 있다. 원문 기사를 바탕으로 이곳에 활자화된 문자열은 출처를 명시하는 한 누구나 자유롭게 활용할 수 있다. 단, 나무위키로의 전재(인용 포함)는 단호히 사양한다.
1919년
各驛簞食檢査
뎡거쟝의 변ᄯᅩ밥 죠흔곳과 나진곳
요ᄉᆞ히ᄂᆞᆫ 여름철이되야 일반히위ᄉᆡᆼ에주의 ᄒᆞᆯ시긔인ᄃᆡ 부ᄑᆡᄒᆞ기쉬운ᄌᆡ료로써 반찬을만드러 각뎡거쟝에셔파ᄂᆞᆫ 벤ᄯᅩ가잇셔々 경셩관리국에셔ᄂᆞᆫ 일젼텰도젼션에셔 파ᄂᆞᆫ것을 젼부본국가져다가 톄ᄌᆡᄂᆡ용의 졍졔여부ᄂᆞᆫ 물론ᄒᆞ고반찬의ᄌᆡ료를 가지고잘 만드ᄂᆞᆫ것과 이ᄯᆡ에 벤ᄯᅩ반찬이되고 안될것과 밥의분량ᄯᅩᄂᆞᆫ 품질기타에ᄭᆞ지 엄즁히검ᄉᆞ를 ᄒᆞᆫ결과작년에 실시ᄒᆞᆫ ᄯᆡ보다 일반의됴와진 모양인ᄃᆡ 아직ᄀᆡ량ᄒᆞᆯ뎜도 잇셔々 크고젹은것을 ᄲᅡ이지안코 여러가지주의를ᄒᆞ야 다시ᄀᆡ량을 ᄒᆞ게ᄒᆞᆫ다ᄂᆞᆫᄃᆡ이졔
▲검ᄉᆞ한셩젹
결과를들은즉 상등벤ᄯᅩ가잇ᄂᆞᆫ곳은 남대문 복계、부산、잔교、대구、부산역、텰원、리々、영등포등이모다 우등으로 합격이되고 수원、신막、신안주、셩환、김쳔、송졍라、뎡주、고산、ᄀᆡ셩、평양은 우등다음이오 션쳔、졍읍은 불량ᄒᆞᆫ탓으로락뎨ᄒᆞ얏고 보통벤ᄯᅩ로ᄂᆞᆫ 부산잔교、부산역、남대문、복계、대구가우등이요 삼랑진、영등포、원산、룡산、수원、신막、리리、셩환、텰원、대뎐、평양、고산、신안주、송졍리、뎡주、김쳔등은 보통이요 ᄀᆡ셩、션쳔、졍읍은 ᄆᆡ우됴치 못ᄒᆞ야 일반에 보통벤ᄯᅩ가 셩젹이 됴치못ᄒᆞ여셔 ᄀᆡ량을 더욱식히ᄂᆞᆫ 즁이라더라
每日申報 1919년 6월 14일호 3면
『벤ᄯᅩ』價値上 상등 오십젼
됴션션각역에ᄃᆡᄒᆞᆫ 벤ᄯᅩ와챠갑이 오ᄂᆞᆫ십일부터 다음과갓치ᄀᆡ졍ᄒᆞ야 실시ᄒᆞ게되얏더라
샹등벤도 오십젼, 보통벤ᄯᅩ이십오젼, 챠물칠젼, 차물가러넛ᄂᆞᆫᄃᆡ이전
每日申報 1919년 11월 9일호 3면
1921년
辨當一齊檢査 각졍거장에너무변ᄯᅩ가죠치못하여셔
만텰경셩 관리국에셔ᄂᆞᆫ 각 운슈 파출원에게 명령하야 됴션젼션(全線)에 대하야 각졍거장에셔 파ᄂᆞᆫ 변ᄯᅩ를일졔히 검ᄉᆞ를하엿ᄂᆞᆫ대 변ᄯᅩ그릇의 치슈와밋담ᄂᆞᆫ 그릇에 대하야 일뎡치가못하야 밥의 분량이 그즁 큰것이ᄇᆡᆨ삼십 몸메도잇고 그즁젹은것이 팔십몃몸메도 잇ᄂᆞᆫ우에 변ᄯᅩ의분량이구십몸메 이하ᄂᆞᆫ 남대문의팔십륙몸메와 뎡주의 팔십팔몸메와 션쳔의팔십팔몸메이며 신안쥬의변ᄯᅩᄂᆞᆫ 놀나지 마라겨우팔십일몸메가되야 밥잘먹ᄂᆞᆫ 식량죠흔려ᄀᆡᆨ에게ᄂᆞᆫ 대타격이라 경부션에셔ᄂᆞᆫ 대구가 그즁셩젹이죠와셔 밥의분량과 반챤너은 톄ᄌᆡ가상등이라ᄂᆞᆫ 평판이 부산과ᄒᆞᆫ가지이고ᄯᅩ부산역의 변ᄯᅩᄂᆞᆫ 그날ᄂᆡᆷᄉᆡ가잇셔셔 먹을슈도업고 품질ᄇᆡ렬이 모다불량하며 리리에ᄂᆞᆫ반챤등물이 부ᄑᆡ한우에 죠치못한 곤포를 사용하며 호남역에셔ᄂᆞᆫ 손졍리의 변ᄯᅩ가 부ᄑᆡ한ᄂᆡᆷᄉᆡ가 잇고 경부션금쳔(金泉)의 변ᄯᅩ의가마복구ᄂᆞᆫ 다시 지지게되며 슈원역의 변ᄯᅩ밥은 아죠흑초를 그대로 사용하며 ᄯᅩ경셩에ᄂᆞᆫ남대문에셔 파ᄂᆞᆫ변ᄯᅩᄂᆞᆫ 상등이나 기타가 모다빈약하야셔 대도회 경셩의 낫을ᄭᅡᆨ긴다ᄂᆞᆫ 평판이잇고기타ᄂᆞᆫ 대동쇼이 하다ᄂᆞᆫ대이뒤로챠차 ᄀᆡ량하고져 ᄒᆞᆫ다더라
每日申報 1921년 8월 30일호 3면
1922년
汽車변ᄯᅩ落價 갑싸고먹기쉬웁게
경관국에셔ᄂᆞᆫ 됴션인 역두안에셔파ᄂᆞᆫ 변ᄯᅩ로브터 일반물품의 락하을 실현하기위하야 목하구톄안에 대하야도연구즁인대 그역안ᄆᆡ뎜의립ᄆᆡ품(立賣品)이라 하여도 그의종류가 젹지안이ᄒᆞᆷ으로 내디텰도셩션에셔ᄂᆞᆫ 불워간변ᄯᅩ 이외의물품은 약이활식ᄯᅥ러트리고 변ᄯᅩᄂᆞᆫ 내용츙실을 실현하기로 결뎡된 모양인즉됴션셔ᄂᆞᆫᄯᅩ다시 한거름 더나아가셔변ᄯᅩᄭᆞ지 범위를확쟝 식히여 샹당한 뎡도ᄭᆞ지ᄂᆞᆫ 갑을ᄯᅥ러트릴예뎡이더라
每日申報 1922년 10월 14일호 3면
1923년
『벤ᄯᅩ』多數檢査 맛업고납부다ᄒᆡ셔 경관국의검ᄉᆞ
됴션텰도각주요역에셔도라단이며 긔챠승ᄀᆡᆨ에게파ᄂᆞᆫ ᄲᅦᆫᄯᅩ가죵ᄅᆡ사십오젼을 사십전으로 ᄯᅥ러트린이ᄅᆡ로 얼마콤 쇼질이납버젓다하야 경관국려ᄀᆡᆨ과 에셔ᄂᆞᆫ 십칠일좌긔 각쥬요역과밋 졍거쟝ᄲᅦᆫᄯᅩ파ᄂᆞᆫ 판ᄆᆡ역역쟝에게 통쳡을하고 당일판ᄆᆡ의 ᄲᅦᆫᄯᅩ샹하 두죵류 각한ᄀᆡ식을 경관국으로 가져다가 십팔일아참에 스물한곳ᄲᅦᆫᄯᅩ를 벌녀노코 오후한시브터경관국 식당에셔 계원의검사시식을한결과ᄂᆞᆫ 각시험원이 공평ᄒᆞᆫ투표뎜수를 평균하야 결뎡한다ᄂᆞᆫ대 경관국에셔ᄂᆞᆫ 슈시로 이계획을하야ᄲᅦᆫᄭᅩ를잘맛잇게ᄀᆡ량케ᄒᆞᆯ심산이라더라
元山 鐵原 龍山 福溪 新幕 永興 高山 安城 永登浦 大田 水原 松汀里 釜山 棧橋及 京義線主要驛合計二十一驛
每日申報 1923년 1월 20일호 3면
1924년
驛辨檢査
京鐵局大田運輸事務所管內各驛立賣辨當の檢査は二十五日施行されたが其の結果左の如し
(上等辨當)一等水原二等大田三等成歡四等裡里五等井邑六等松汀里
(普通辨當)一等裡里二等成歡三等水原四等松汀里
朝鮮新聞 1924년 2월 27일호 3면
各驛『벤ᄯᅩ』檢査 ᄀᆡ량할목뎍으로 영업ᄌᆞ에계신칙
션각텰도 뎡거장(停車塲)에셔파ᄂᆞᆫ 『벤』도ᄂᆞᆫ 페일 안하고영리를목뎍할 ᄲᅮᆫ으로『벤ᄯᅩ』도 ᄆᆡ우 칠어비란의 소리가 근ᄅᆡ에 이르러셔ᄂᆞᆫ 더욱심하야젓다 이에 당국에셔ᄂᆞᆫ 이를주의하는 동시에졈졈ᄀᆡ션을도모하던즁이엇ᄂᆞᆫ바 이번에대뎐운슈ᄉᆞ부소(大田運輸事務所)에셔ᄂᆞᆫ 이십삼일 오후한시브터 비밀히 게원을수원(水原) 셩환(成歡) 리리(裡里) 졍읍(井邑) 송뎡리(松汀里) 대뎐(大田)의 여섯 뎡가장에 파견하야 각뎡거쟝구내에셔파ᄂᆞᆫ 벤도』를사듸려엄즁ᄒᆞᆫ검ᄉᆞ를실ᄒᆡᆼ한결과 아ᄅᆡ와갓흔셩젹을발표하얏ᄂᆞᆫ대그즁에ᄂᆞᆫ물론좃치못한것도잇스나일반으로ᄂᆞᆫ셩젹이량호한편인바ᄒᆞᆫ층더주의식혀ᄀᆡ션케하기위하야영업자일동에게그심사ᄒᆞᆫ결과의ᄌᆞ셰한것을통지하엿더라(大田)
上等『벤ᄯᅩ』
一等水原八十三点▲二等大田八十二点▲三等成歡八十一点▲四等裡里八十一点▲五等井邑七十五点▲六等松汀里七十五点
並等『벤ᄯᅩ』
一等裡里八十四点▲二等二等七十八点▲三等水原七十五点▲四等松汀里七十三点
每日申報 1924년 2월 29일호 3면
1925년
咸興を代表する米 郡廳內の產米組合で賣る 驛辨當に使い宿屋でも使ふ
數年前迄は咸南米とし云へば內地の各市塲で、惡い米の代表たる觀があつたが當局の指導奬勵に依り優良品種の普及と調製の改良と相俟つて逐年品質向上した從來の不評に引き替へ相當の聲譽を博するに至つた分けても咸南米の代表として特にその存在を認められて居るのに咸興郡川西面產米改良組合の米がある現在の組合員は六十餘名で範圍が狹い爲め供給能力も十分でなく昨年が七百石本年は千石內外の[辨]當である便宜上產米組合の事務所を郡廳內に置き三百七十八番に電話をかくると此の咸南代表米を配達して吳れる每日七俵づゝ位は賣れるらしい何分組合員各自の米組合の籾[摺]機械にかけて精米するから普通の精白米業者の値段より安く賣つても十分採算が採れる譯だがこの產米改良組合の供給能力が增大すれば精米業者には大打擊なので當局に陳辯したこともあつた當局に於てもその點は隨分考慮してゐるやうだなほ咸興米宣傳の意味で日の出旅館芙蓉館等では當局の意を汲み產米改良組合の米を使用して居るが芙蓉館仕出しの驛辨當もこの米である(咸興)
朝鮮新聞 1925년 2월 5일호 4면
1926년
驛辨當を不意に檢査する
近時鮮內各地の驛辨當が一般的に品質粗惡となつた傾向あり而も値段等より見て內地に比し著しく下等にして餘程改善を要するものまるより鐵道局に於ては局員を隨時各地に出張せしめ驛辨當の不意檢査を實施して之が改善を圖る事にしたが比較的評判のよいのは永登浦驛辨で是は鮮內で一番良好との事である京元沿線の如きは最も粗惡であると
朝鮮新聞 1926년 8월 11일호 9면
1927년
京義線の驛辨 定州が一等
平壤運輸事務所においては去る九月二日管內各驛の立賣辨當の檢査を施行し今回その成績を左の通り發表した
驛名 等級 飯量目
定州 一 一二一匁
新幕 二 一〇六匁
黃州 三 一一九匁
平壤 四 一〇六匁
新義州 五 一一二匁
宣川 六 一〇一匁
朝鮮新聞 1927년 9월 14일호 7면
1928년
驛辨でない 除隊兵の中毒事件
旣報會寧聯隊の除隊兵が歸途廿五名辨當中毒にかゝつたとあるが調査の結果、淸津驛にも會寧驛にも驛には辨當を賣つてゐないので、該辨當は驛辨當ではないから一般旅客の誤解ない樣にと鐵道局では注意してゐた
京城日報 1928년 6월 14일호 2면
1929년
驛辨値下 來年から
(東電)鐵道省の驛辨五錢値下案は各地方鐵道局も全部贊成したので來春一月末頃から全國一齊に驛辨三十錢均一となる筈
朝鮮新聞 1929년 11월 19일호 9면
驛辨値下げ 解禁日に實施
(東電)汽車の驛辨を一齊に三十五錢より五に値下げするは旣報の如くであるが右は明年一月十一日金解禁日より行ふことに决定又驛賣りお茶は七錢を五錢に下げ二月十一日紀元節より實施されることとなつた
朝鮮新聞 1929년 12월 6일호 2면
1930년
京義線驛辨成績
四月上旬平壤運輸事務所管內における驛辨の檢査を施行したがその成績左の通りで今回も定州が最優等であつた
副植 容器レ 合
物 飯 ツテル外 計
定 州 四、七〇 二八、八 一六、二 九二、〇
新 幕 四二、五 二九、二 一四、四 八六、一
平 壤 四一、六 二二、二 一八、五 八二、三
新安州 四一、三 二五、〇 一五、〇 八一、三
宣 川 四一、七 二五、八 二三、八 八一、三
黃 州 三五、九 一八、二 一八、二 七二、一
朝鮮新聞 1930년 4월 16일호 7면
全鮮驛辨調べ 永登浦が一等
全鮮驛辨立賣組合では立賣辨當に就いて去る一八日鐵道局員立會の下に京城において審査會を開き審査を行つたところ飯及お副共滿點で一等賞を得たのは永登浦で次は城津が味付の一寸落ちたゝめ二等となり三等は定州であつた主要驛たる京城平壤大邱等は比較的粗惡であつたので永登浦に今後はならつて大いに改善する方針である因みに永登浦は每年一等を續けてゐると
朝鮮新聞 1930년 5월 29일호 9면
1931년
(廣告)
室料制度
驛辨當 林屋旅舘
京城驛前(電本六二九番)
朝鮮新聞 1931년 1월 1일호 8면
1932년
大田運輸事務所管內 乘客奉仕協議會 ══ 各驛辨當業者を集めて
〔鳥致院〕旅行シーズンに向ひ團體申込の增加につれて鐵道局では旅客吸收の對策としてサーピス主義をもつて旅客の旅情を豐ならしむるの趣旨により大田運輸事務所長は二十九日同管內驛辨當立賣營業人を大田鐵道集會所に招集して協議會並辨當審査會を開催した、水原、成歡、天安、鳥致院、裡里、井邑、大田、大田際上食堂の八名鐵道側は所長を初め拾餘名出席本局營業課からは中村氏出張參與した
一、現在販賣の辨當を更に改善の餘地なきや
二、辨當及お茶の價格を低き下ぐる餘地なきや
三、其の他に於ける特產物を利用したる食物を調製することを得ざるや
四、賣子の『サーピス』的訓練を如何にして居るや
右の數項につき午後二時より所長議長席につき硏究討議しなほ六項にわたる希望事項を述べ次いで辨當審査を行つた結果鳥致院、天安の特殊辨當を除いて
一等成歡、二等大田、三等水原、四等裡里、五等井居邑、六等松汀里
の順序に等級を决定後鮮內辨當類レツテルの改善に資せんと全國各地の優秀なる作品を蒐集硏究中である浦谷鳥致院驛長の全國辨當類レツテル展を催したが蒐集界稀に見るものとして異彩を放つた、午後六時より一同荒川樓において十餘名の美妓を擁し懇親會を催し午後十時盛況裡に散會した
朝鮮時報 1932년 2월 3일호 7면
驛辨審査 一等釜山本驛
釜山運輸事務所管內における驛立辨當の審査を十八日ホテルで開かれた管內重要驛區長會議の際の出席者大橋所長以下二十二名とホテル料理等立會の下に行つたが旅客の立塲から見て包裝飯副食物に☒き體裁賃量調理等を公平嚴格に審査した結果採點の上では相當な懸隔があつたが成績左の如し
一等 釜山本驛
二等 三浪津驛
三等 馬山驛
朝鮮時報 1932년 3월 20일호 3면
冷たい驛辨當……その塲逃れの不親切
私は先日午後京城驛から南の方へ一寸用事で出掛けた。その日は仕事も忙しかつたので晝飯を食べる暇がなく、乘車後京城驛のプラツトホームを賣り歩いてゐる『鯛めし』を大枚卅錢を投じて買ひ求めた。辨當を手にした瞬間食慾が猛然と起つて來たので早速パクついたら、驚くべし、ヌク〳〵の『鯛めし』と思つたのは冷飯のボロ〳〵と云ふ程ではなかつたが可なり悲觀すべき冷飯だつた。驛辨も隨分と長い間食つた私ではあるが、こんな悲しい目に遭遇したことはない。內地の田舍の田舍の不味い辨當には出合つたことはあるが、不味いなりにもそこには親切味が窺はれた。
この驛辨には相當嚴重な當局の檢査があると聞いてゐる。尤も數多くの辨當を一々嚴重に檢査することの至難なことは十分に察することは出來るが、檢査の目が屆かぬからと云つて、賣手が緣日商人のやうなあんな不親切な辨當を賣るのは全く以て不都合である。花見時の風來辨當屋でももつと親切味がある。私は今後驛當局の方がもつと嚴重に檢査されることを希望すると同時に、辨當屋もその塲のがれに何んでも賣つて仕舞へばそれでよいといつた狹い量見を棄てゝ貰ひたい。不自由な旅人には殊にこんな不親切が身に泌みて感じさせられる。殊に朝鮮のやうな冬寒い國では冬期の飮食物には深甚の注意を拂つて貰ひたいものだ
(一旅人)
京城日報 1932년 4월 2일호 7면
1934년
何處の驛辨を食べませう お鮨では釜山驛第一位 全鮮各驛の辨當審査
此の程開催された驛構內營業組合總會開催を機として全線驛立賣並に特殊辨當の審査を施行したが其の結果立賣辨に於いては第一位開城驛の八三、七八、第二位庫底の八三、五五、第三位釜山本驛の八二、三九、第四新幕の八二、三四、第五位慶州の八二、一一のベストファイブで釜山棧橋驛辨は第九位八一、〇三〇の最低位は沙里院の六九、七三となつて居る更に特殊辨當鮨、うなぎ丼、鳥めし等に就いて審査の結果は第一位は釜山驛の鮨で平均得點八八、四九、第二位は京城驛の鮨八四、七一、第三位は金泉の鳥めし八四、二八、第四位は鳥致院の幕の內八三、五〇、第五位は三浪津驛のうなぎ丼八三、二一の順位で最下位は天安驛の稻荷鮨七九、六一である
釜山日報 1934년 12월 19일호 2면
1936년
驛辨は全鮮一 旅舘食堂は家族的 驛前〝霞月〟のサービス
永登浦の名物はビールがその一つであるがこれと肩を並べるものは何といつても驛前齋藤旅舘仕出しの驛辨當が歷史からも美味からも一番である、この驛辨は三十年前から齋藤幸吉氏が改良に改良を重ねて苦心慘膽の經驗を積んだもので今日全鮮第一の評判を博してゐることも氏の熱誠を凝らして努力した結果で何の不思議の存するところない、驛辨の仕出しから意を得た氏はまた五年前から營業を擴張して旅館を開業したがその雅趣と豪華な設備と料理の美味、しかも家庭的親切さは採算を度外視する經營であるだけに眞の顧客本位なのでいつも大賑はひである、殊に食堂部「霞月」の方はカフエーとしては歷史の古いことナンバワンで福子、絹子、信子、茂子、コズエ、榮子、サチ子その他腕達者の美形連のサービスも滿點で、いつも待合に社交にと集まつて來る商用客などで滿員をなし、大永登浦の好景氣を反映してゐる、なほ經營主齋藤幸吉氏は兵庫縣人で一七歲のとき永登浦に來た古參株の一人で、その性稀に見る溫厚篤實而も仁俠の人で二十有餘年消防手小頭、組頭と義勇奉公した功大なるものありて去る二月十日の佳節に當り富永京畿道知事から表彰され光榮の人であり同時に邑會議員の公職も二回も繼續當選して地元發展に多大なる功績がある(寫眞は驛前霞月)
朝鮮新聞 1932년 4월 1일호 15면
〝日本一の〟釜山辨當——局長上機嫌
◇…廿日朝通貨歸任した吉田鐵道局長は何ゾ良い御土産があつたのか上陸第一歩から梅雨空ち云ふにいとも朗かで上機嫌だつた
◇…混戰狀態の棧橋連絡作業を視察し「春田君(釜山驛長)釜山棧橋の驛辨は內地で好評だゾ……」と、山陰線の或る處の人に『釜山の三十五錢の驛辨は內地の四十五錢より☒☒上等で☒盤になるか』と褒められたよと局長ハナハナ鼻が高かつたらしい
◇…それをそのまま春田驛長高々と「棧橋の岡村と驛の岡本の辨當と每日に競爭さしてゐます」「日本一の辨當の筈…」だけは飲みこんで偉張つて見せるとムツツリ局長が破顔して「ムフフ……」
◇…當の岡村棧橋食堂主も人に面目をほどこして近眼鏡の奧から細い眼を輝したが嬉しくて先が見えなかつたらしい(寫眞は吉田局長)
釜山日報 1936년 6월 21일호 2면
1938년
“驛辨”値下げ 來月一日から卅錢に
【大邱】銃後々援强化週間を機に鐵道局では全線驛の販賣辨當を五錢値下げ卅錢として賣出すと共に一般旅客から忌憚なき申告を求めた所好評を博したので來る十一月一日から一齊に卅錢とする事となり大邱驛では同日から直ちに實施する事となつた
釜山日報 1938년 10월 14일호 4면
驛辨のムダ 年に六十三萬圓
旅行シーズンになりましたが、旅先には色々と無駄があるやうです一番目立つのは驛辨の無駄—つまり半分食べて捨てられたり、まわりに澤山御飯粒をつけて放り出すといふのが實に夥しく、一ヶ年に見積ると、七萬七千八百五十九貫で、白米八百四十石五斗にもなり又お菜は十八萬七千九十一貫で、金額にすると、何と六十三萬百六十八圓といふ莫大な額に上り、また驛辨の箱もすべて捨てられるのですが、これはパルプ原料ですから重要資源が、旅によつてドシ〱消耗されてるわけです、旅行に當つては、これ等のことを考へて徒らにムダを出さぬ樣にしたいものです。
朝鮮新聞 1938년 10월 28일호 3면
驛辨の檢査 全部合格す
旣報の如く鐵道局は銃後節約持久精神涵養の一端として全鮮の驛辨卅五錢を廿五錢に値下げ十一月一日より實施する事となつたので京城鐵道事務所は廿七日管内驛販賣店に命じてその下檢査をなし係員立會の上嚴重な檢査が行はれた
新容器は御飯はこれ迄通りで、おかず折りが從來のものゝ半分の容積となつて居るが實質的に見て全部檢査合格と太鼓判が捺された
朝鮮新聞 1938년 10월 30일호 2면
驛辨に標語
鐵道局では十二月十五日から廿一日まで施工の年末年始銃後報國强調週間中は一般行事の外全線の驛辨當に「國を護つた傷兵を守れ」「生活の刷新、物資の節約貯蓄の實行」と銃後報國强調標語レッテルを揷入、旅客公衆に呼びかけることとなつた
朝鮮新聞 1938년 12월 8일호 2면
1939년
驛辨のみ特例 慶北の七分搗鳧
【大邱】驛辨の七分搗米問題について鐵道局は道の方針に成るべく副ふため驛辨だけは特例を設け白米とすることとなつた、よつて大邱驛で能勢主任助役が道廳と折衝しこの白米は慶南から搬入することとなつた
朝鮮新聞 1939년 8월 13일호 9면
〝호텔〟停車場『벤ᄯᅩ』도 흰쌀밥과袂別! 鐵道局에서도 節米運動斷行
쌀이 귀해질것을 전제로하야 쌀갑을 어제부터 고정식여가지고 팔게되엇스며 한편으로 절미운동(節米運動)을 실시하고저 국민정신총동원조선련맹과농림국에서는 잡곡(雜穀)을 석거먹고 ᄯᅩ한 현미(玄米)밥을 먹도록 선전을하고잇다
이에대하야 철도국에서도 국책적인 이 절미운동을 적극찬성하는의미에서 각정거장에서 파는 『벤ᄯᅩ』(辨當)와렬차식당 철도국에서 경영하는각『호텔』에서도 순전한힌쌀밥을쓰는대신에 六七부가량정백한쌀을써서 절미운동을실시하도록하리라고한다
종래에는 조선쌀의 성가(聲價)를드날리고저 순정백미를썻든것으로 시국의물결에의하야부득이철도국에서도 백미를페지하리라는것이다
每日新報 1939년 8월 23일호 6면
賣店も繁昌 各主要驛辨店調
興亞大陸の躍進による旅客の激增に鮮內主要驛中賣店、立賣、赤帽の營業成績は躍進的な數字を示しあのチッポケな京城驛の一二等待合室前の賣店の如きは一ヶ月に一萬圓以上の賣上があり、これに立賣、赤帽等を加へると七月中の城績は實に一萬二千二百三十二圓十八錢となつて居り鮮內主要驛及列車內の營業成績は左の通りである
圓
釜山 賣店 六、五六一・八一
三浪津 立賣 四、〇一九・六四
大邱 賣店 五、三七五・四一
〃 立賣 六、五六三・九六
大田 賣店 四、九五八・八〇
〃 立賣 六、〇〇八・九七
龍山 賣店 四、八〇九・二六
京城第一賣店一二、二三二・一八
〃 第二賣店 九、九〇三・八五
平壤 賣店 九、九五〇・三〇
元山 賣店 四、二六九・八五
南京城 賣店 二、七四九・〇二
釜山 赤帽 三、二四八・〇二
京城 赤帽 七六二・五〇
車內 販賣四八、六九三・四〇
朝鮮新聞 1939년 8월 23일호 2면
驛『벤ᄯᅩ』 廿五錢그대로
현재 조선 안각 정거장에서 팔고잇는 『벤ᄯᅩ』는 三十五전식하는전보다품질이낫버저서 갑슬올리며품질을낫게하랴든것은 지난十四、五日 이틀동안 룡산철도본국 제一회의실에서열엇든 전조선영업주임회의에서 시국관게를고려하야 二十五전그대로팔기로 방침을결정하얏다고한다
每日新報 1939년 9월 17일호 6면
驛벤ᄯᅩ改良 25錢과40錢 廿五日부터販賣
철도국에서는 오는二十五일부터 각정거장에서파는 변당(辯當)을二十五전자리와 四十전자리두가지를 맨드러팔기로되엿다 즉 역『벤ᄯᅩ』는작년十一월에十전식 나려서 二十五전식바덧는데 그 ☒☒☒☒ 조치못하야 여러 ☒☒☒☒☒☒☒☒ 갑시싸진대신에 먹을것이별로업다는것을알게되엿지마는 절미운동(節米運動)과 대중을상대로 갑싸게팔든것을갑작이올리기도안되엿고 결국은이상과가치두가지벤ᄯᅩ를 맨드러팔어보기로하야 우선오는二十五일부터
부산 대구 대전 리리 경선 신막 평양 정주 원산 복게 성진 신북청
등열두정거장에서 두가지로 팔어보기로하엿다는데 한두달동안 성적을 보아가지고 게속하야팔고안팔것을 결정하기로되엿다고 한다
每日新報 1939년 11월 17일호 3면
旅行者の慰安 驛辨の改善 當分十二驛で試賣り
旅行者にとつて一つの樂しみである「驛辨」は昨年十二月十錢下げの二十五錢に改められたがその後の情勢を見ると、たとへば釜鐵管內では食堂車利用者の率が旅客增加の率に比して遙かに大であるばかりで鮨丼などは特殊辨當に比し加速度的增加率を見せてゐるこの現象は要するに內容の貧弱が原因してゐるが昨今の物價高ではこれ以上どうすることも出來ず强ひて內容を豐富にすれば營業人の利益を無視することになる鐵道局では種々硏究中であつたが結局現在の二十五錢の分はそのまゝとして四十錢辨當を來る二十五日から釜山、大邱、大田、裡里、京城、新幕、平壤、定州、元山、福溪、城津、新北靑の十二驛で併賣せしめることになつた、但しこれは「試賣」で一、二ヶ月樣子を見た上でこれをつづけるかどうかを决するはずである
朝鮮新聞 1939년 11월 17일호 11면
1940년
鐵道선奉祝벤ᄯᅩ
【東京電話】황기二천六백년식전과 축전을 기념하야 동결철、국(東鐵) 각역에서는 十一월十十一일양일에 봉축기념 『벤ᄯᅩ』를 팔기로되엇는데 전국열차식당에서도 十一월五일부터 十四일ᄭᅡ지 一원ᄶᅡ리와 五十전ᄶᅡ리 성식을팔기로되엇다
每日新報 1940년 11월 2일호 3면
1941년
鐵道旅行에도資源愛護를 변ᄯᅩ空匣 茶甁을버리지말라
【東京電話】현재전국각정거장에서팔고잇는 『벤ᄯᅩ』와 『스시』를 담는상자는 일년간약七천만개에 一천五백 『키로톤』에달하야 三十평의주택을 一백五十호나짓게 된다 그리고내여버린 『벤ᄯᅩ』에 말너붓튼 밥알은적게치드라도一년간약十만 『키로그람』으로三만원에달한다 그런데 『벤ᄯᅩ』상자는 모다조흔재료로만든것이므로 철도성에서는 『팔프』원료로재제하고잇는데 그박게차그릇 『커ー비』우유병등도 다시만드러쓰고잇는터이여서 열차여행을함에도 물자를사랑하라고 일반에게요망하고잇다
每日新報 1941년 10월 25일호 2면
1942년
驛辨窓口販賣 來る十五日から
【東京電話】旅客輻輳の昨今驛辨の入手難が旅行者の惱みの種となつてゐるが鐵道省ではこの立賣辨當を乘客に樂に公平に入手させようと來る十五日から全國一齊に窓口販賣を實施することゝなつた、物資不足と旅客激增の爲め最近では乘客の約五割にしか辨當が行き渡らず從つて短い停車時間中に爭奪が演ぜられる驛賣(辨當その他を含む)は一切窓口からでないと買へないことゝし老人や婦人、☒☒軍人等に優先的に配給することゝなつたので旅行者は成るべく辨當持參で乘車するやう☒☒してゐる
釜山日報 1942년 5월 5일호 2면
1943년
汽車탈ᄯᅢᆫ벤ᄯᅩ를 鐵道局서旅客에注意
철도국에서는 전시하기차로여행하는 [사]람은반다시 두ᄭᅵ의 『벤ᄯᅩ』를가지고다니라고제창하엿다 만주국에서는 지난四월一일부터 외식권(外食券) 제도를 실시하야 증명서가업스면 여행간지방에서 식사를전연하지못하게되엇는데여행게절이되여여객의증가가 예상됨으로철도국에서는두ᄭᅵ의밥을가지고다니라고 강조하는것이다 즉내선만지(內鮮滿支) 장거리여객에대하여는 역『벤ᄯᅩ』의 증급과열차식당의증설등으로극력 힘을써올터이지만 수량의증가는 만히할수업는터임으로 전시하의 여객은두ᄭᅵ밥을가지고다니여유쾌한여행을하라는것이다
每日新報 1943년 4월 29일호 6면
釜山に おさつの 驛辨
釜山府では 一ぱん府民に はいきふした のこりの さつまいもを 驛辨に ふりむけ 大陸往來の お客さんを よろこばせることに なりました。これは 朝鮮では はじめての こゝろみです。
每日新報 1943년 12월 10일호 4면
1944년
비빔밥벤ᄯᅩ 今後 列車內서販賣
교통강생회(交通康生會)에서는 지금ᄭᅡ지 기차안에서찰밥 『벤ᄯᅩ』를 팔고잇섯스나 결전하 한알의쌀이라도 절약을하여 될수잇는대로 자근분량으로 만흔사람에게 요기를 시키려고 찰밥『벤ᄯᅩ』는 페지를하고 새로이 비빔밥 『벤ᄯᅩ』를 개시하여 二十四일부터 팔기로 되엿다 이비빔밥 『벤ᄯᅩ』라는것은 쌀이五十『몸메』 채소가二十六『몸메』 그박게양념四『몸메』 전부 八十『몸메』의 맛잇고 자양분 만흔것으로서 갑은 三十五전이며 먼저 교통강생회에서각열차에대한 수량을적어 『벤ᄯᅩ』인환권(引換券)과함ᄭᅦ 당해열차여객전무에게주면전무는 이를다시차내애국반을통하야여객에게공평하게배급을하는것이다 배급을할열차와배급에우선권을줄여객은 다음과갓다
一、(가) 第一 第二 第三百一列車 (二食分)
(나) 第二 第四 第十二列車 (一食分)
二、(가) 內鮮滿華直通旅客
(나) 傷病軍人 病人 小兒 老人 婦女子
(다) 乘繼客으로서 北行新☒ 高山 以遠反南行天安以遠行旅客
(라) 鮮內旅行客에對해서는二百粁以上의旅客
每日新報 1944년 5월 25일호 2면
驛벤ᄯᅩ車內販賣
『역벤ᄯᅩー』를 칠월일일부터 졍거장 『홈』에서 팔지안코 차내애국반을통하야 팔기로되엿다
每日新報 1944년 6월 30일호 3면
비빔밥과甘藷벤ᄯᅩ 七日부터驛賣開始
【東京電話】철도의 역두에서파는 『벤ᄯᅩ』는 이번새로고모ᄭᅮ메시(五目飯)와 감자벤ᄯᅩ 철도ᄲᅡᆼ의 세가지를가하야 七일부터 전국일제히 팔기로되엇다 종래 정거장에서 파는벤ᄯᅩ갑은 하나에四十전ᄶᅡ리의 보통과 二전ᄶᅡ리의 스시(壽司) 두가지엿는데 이번은 요새한창나오는 감자와 철도ᄲᅡᆼ등 대용식을중심으로한결 전식이 새로등장하기로 된것인데 『고모ᄭᅮ메시』는 八十『몸메』에 三十전 감자『벤ᄯᅩ』는 감자가 一백五十몸메에 부식물이十몸메인데 三十전이며 철도ᄲᅡᆼ은六十五몸메에 二十전이다
每日新報 1944년 10월 8일호 2면
'자료' 카테고리의 다른 글
아랍어 〈청진월비〉 발췌역 전재 (0) | 2025.02.20 |
---|---|
신태현(1958) 〈거란문자고〉 《사조》 1 (2): 251–255 (1) | 2024.12.18 |